大崎半島にまつわる歴史と謎〜戦後の開拓〜

更新日:2023.12.14

瑠璃の水辺 編集部

瑠璃の水辺 編集部

昭和20年(1945年)、日本降伏により幕を閉じた太平洋戦争。その後、国内の軍事組織が解体され、大崎半島も軍の手を離れた。 

その後、食糧増産・復員軍人・海外引揚者・戦災者の就業確保のため、国策として日本全国で開拓事業が行われた。大崎半島はその開拓地の一つに指名された。そして開拓地にやってきた人たちを「入植者」という。 

当初、大崎半島への入植者は14名。まずは、麦、甘藷(さつまいも)+畜産の複合経営が進められた。その後、麦と甘藷の需要が減ったことに伴い、昭和33年(1958年)頃から温州ミカン、桃などの果樹園経営に切り替える。 

昭和50年(1975年)頃の営農状況は、養鶏専業1戸、果樹養豚専業1戸、果樹、野菜専業1戸、花木専業、果樹兼業4戸だった。 

国道より数キロ離れた区域で、小路しかなかったが、昭和31年(1956年)に道路を開拓開通。昭和38年(1963年)にくじゃく園が開園したことに伴い、幅員3.6mの大崎道路が開通。昭和44年(1969年)には幅員5mに拡幅、舗装された。また、くじゃく園用地提供のため5戸の入植者が離農した。 

電気は昭和34年(1959年)に導入されている。 

川棚町史談会 古川恵美 著